我が友、スミス 石田夏穂

主人公U野(女性)は筋トレの励む会社員。ある日、ジムで筋トレをしている際にO島から別の生き物になれる、とボディビル大会出場を勧められるところから話が展開していく。

 

個人的に魅力を感じた点は以下の通り。

1.想像力をふくらませると楽しい

2.正しさとはなにか

 

1.想像力をふくらませると楽しい

 これは冒頭のシーンから。筋トレの種目名で3ページほど描いているのだが、そこが絶妙にしょうもなくていい。日常なんて、みんなそう変わらず、大切なのは捉え方。ちょっとしたことで楽しく暮らせるならそっちのほうが断然いい。そういう面で、小説で等身大なエピソードがちょこっとあると一気に読書意欲が湧く。

 

2.正しさとはなにか

 この小説は感動して泣くといった類のものではないと思うが、私は大会で同ブロック1位がドーピングで棄権となり、繰り上がり決勝進出したシーン。あそこで涙が出た。そこの一文を以下抜粋する。

「十五番と私なら、雲泥の差で私の完敗だ。だが、決勝に進むのは私だ。私の身体に、軍配が上がったのである。そうか、去年だったら、この逆転劇はなかったわけだ。これは一体どういうことだろう。」

U野は初めは女らしさというものを小馬鹿にしたり、羞恥心から遠ざけてきた。そんな中、それが正しいかどうかわからない中、別の生き物になれるという言葉に感化され、大会にむけ努力を重ねていく。一方で、そのなかで、女らしさが大会には必要になることを実感し、脱毛や美容クリニックに通う。もちろんそこに、葛藤を抱えながらも、必要なことだと飲み込めるようになる(実際、Gジムに通っていた際小馬鹿にしていたS子のことも認めて尊敬するようになる)。

そうして迎えた本番での一文である。別の生き物になるべく努力をしていたのに、いつの間にか自分は他人の評価に身をおいていたことを実感する。ドーピングに関しても、昨年までは認められていた薬剤である。ここで、目的≠行動になっていたことに気づく。次の瞬間、U野はハイヒールもピアスも脱ぎ捨てて身体一つでステージに立つ。

余談だが、最後U野とE藤が話すシーンで、O島も現役時代あなただったみたい、というシーン。物語冒頭に戻るが、O島が大会勧誘を勧めるシーンで、「やはり何事も外部に発信することでそれ以上の価値を生み出す」と話す。

どちらが正しいということはない。人間は集団の中でしか生きて行けず、そこでは表現する、ことはコミュニケーションとしては必須となる。一方で、自分に生きることを選んだ場合、U野の行動もよく分かる。こればっかしは、どちらも経験した本人が決めることだと思う。

最後に、GジムでS子にスミスマシーンを譲るシーンで、ステージというやつは、自分で演出するものなのだろう、とある。他人の評価などは意に介さず、自分が納得するようにすることが大切なのだ。

生きていると色々なことで葛藤する。私自身も、「就活or企業」「結婚するかしないか」のような重要な選択から「友達の誘いを受けるor断るか」「挑戦するかしないか」まで色々悩んできた。だが、結局は自分が納得する方向へ、目指すことがいいのかもしれない。断定もできないし、臨機応変に決めなければならない。

 

最後に、私自身まだまだ飲み込みきれておらず、なぜ、泣いてしまったのかも分からない。ただ、きっとそこに共感する部分があり少なからず、自分が不自由に感じているからだろう。感情が揺さぶられる小説は人に勧めたくなるなぁ。