「嫌われる勇気」 岸見一郎、古賀史健 Part.2
お久しぶりです。
久々に嫌われる勇気について続きを書きます。
私が伝えたい部分として、以下の3つの章に分けてお話します。
1.ライフスタイルを変える勇気
2.すべての悩みは対人関係の悩み
3.普通であることの勇気
本日は2.すべての悩みは対人関係の悩みについてです。
悩みのすべては対人関係があるからこそ成り立つ。
果たしてそうなのか。。。
例えば、自分の顔に自信がない。それは、イケメン、美人と比較するからこそでてくる悩みです。
いろんな悩みを思い浮かべてほしいのですが、誰かと比べることによって生じる問題であることに気づくはずです。
誰かと比べる人生を続ける先には幸せはありません。
25年間生きてきた私が断言します。
高校で勉強ができて、いい大学に入ったとしましょう。そこには賢い学生が集まり、頭脳という面で抜きんでることは難しくなる。
その時に勉強を行うモチベーションが周りよりできることによる優越感であるならばそれは危険です。
抜きんでることができなくなった途端、勉強が嫌いになるでしょう。
学問そのものに魅了され、学んでいくことに学問を究める上での幸せにつながると考えます。
一方で、テストの点数が伸びないという悩みがあるとする。これは自分の中のみで完結している悩みである。
結論から言うと、ここについては本書ではボヤっとされている。
個人的には悩みだと思います(笑)
ただ、アドラー心理学では自分との闘いを「優越性の追求」と言い換えています。
昨日の自分より成長するように努力する、1年前の自分を超えることができず自分自身に劣等感を感じる、これは健全と述べている。
ここで、行動面での目標を2つ、心理面での目標を2つ掲げています。
行動面
1、自立すること
2、社会と調和して暮らせること
心理面
1、私には能力がある
2、人々は私の仲間である
肝は心理面の目標の一つ、私には能力があると思うこと。
でも、自分にはどうしてもできない、努力しても達成できない、ことが出てきたときにすべては対人関係の悩み論は破綻します。
しかし、そこはアドラー心理学。それは悩みにはならないと明確にしています。
キーワードは「自己受容」と「普通であることの勇気」。
自己受容について。
自己肯定とは、できもしないのに、私ならできると暗示をかけること。
この考えは最終的には対人関係の悩みに帰着します。
具体的には、
私ならできる→自分は頑張れば何でもできる→自分は特別である→世の中の人のうちできない人もいるだろうが、自分は特別なのでできるはずである→自分は他者より優れている。
どれだけ危険な思想かお分かりだろうか。
根拠のない出来るという感情は一種の優越性コンプレックス(人にすぐ自慢してしまうようなこと)につながっているのだ。
そこで自己受容という言葉が出てくる。
簡単に言うと、「肯定的なあきらめ」といえる。
変えられるものと変えられないものを見極める、課題を分離する(これはアドラー心理学の本を読んだ人なら使いたくなる言葉(笑))ことになる。
キリスト教社会で古くから交渉されてきた言葉を引用する。
「神よ、願わくばわたしに、買えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、買えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見極める知恵を授けたまえ」
実は、これは「3、普通であることの勇気」につながります。
何か困難にぶつかったときに、根性論で乗り越えず、自分を受け入れてできる範囲で頑張ってみては?
自分を人生の主人公と思って生きることも魅力的です。私はこの考え方が好きですが、何でも乗り越えられる主人公ではなく、のび太をイメージしてくださいね(笑)
以上で嫌われる勇気の感想を終わります。
自己啓発関連の本は読んで終わりではありません。
この内容をたまに見返し、タスクにぶつかったときにふと思い出してください。
そうして、自分の考え方を見直して他人との比較が入っていないか確認してください。
学歴社会で生きているとなかなか考え方を変えるのは困難ですが、少しずつ幸せになるために、変われるといいですね。